大学の片隅で事務職員がさけぶ

小さな大学の事務職員がいろんなことをさけびます

教員と戦うとき

大学職員になって避けることができないのは、教員との付き合いである。

大学組織は複雑で、大学という中に教員の組織と事務組織の2つが存在し、つながっているようでつながっていないあいまいな距離感がある。大学によっては、一体化しているところもあるし、まったく別に存在しているところもある、みたい。

うちの場合は学生部、教務部といった大くくりの中で教員と事務員がいる、みたいな状態だろうか。教員はけして上位ではないが、事務職員はどうしても教員を立ててその指示に従う、という人が多いように見える。

私は中途で入ったので、最初そうした人間関係がわからず、教員と職員のつながり方もわからず困ったものである。教員は政治家で職員は官僚ですよ、と教えてくれた人もいたけれど、なんか違う気がした。またある人は、教員のいうことに従っていればいいといったけれど、その結果は誰が責任をもつの? こういうことに上司とかがあいまいな点も要因である。

 

結局慣れていないんです。

 

私は教員に対しても意見は云うし、ディスカッションも試みる。会議でもついつい口を出してにらまれることもあるし、時には口論に近い状態になることもある。でも、そうして意見を交換することで信頼も得てきたと思うし、成果も作ってきた、と思っている。だから、ちゃんとわかりあえる教員や職員もいるんですよ。

 

とはいえ、意見を言い合えばうまくいくわけではない。この前も、学長などの幹部がいる席で、ある部署が報告していなかった問題点に触れたところ、その責任者である教員がまわりを顧みず烈火のごとく怒りだして、「いや、個人的何意見でしたので、撤回します」と退いたことがあった。みんな、いいことだけを報告したいんですよね。私は立場的に学内の情報を収集して、幹部に上申することもしているんだけれど、ついつい公の会議で口走ってしまったために、大騒ぎになった。

私のことはどうも注意人物として、その部署ではマークしているみたいだ。

 

教員と戦うときは、まず決意をして、勝つ算段をして、なおかつ逃げ道をわかりやすく作ってあげないと、痛い目に合うのは間違いない。今回は逃げ道を作ってあげなかったのが敗因だ。

私はこれから、痛い目に合うのかな。

個人情報と入学式

大学も入学式シーズンである。昨今は授業時間の確保のために早め早めのスタートとなっていることから、どの大学でもかなり早い時期に入学式を行うようになった。大学によっては入学式の前から新入生ガイダンスを行うところもある。

さて、こんなニュースがあった。

横浜国立大学が入学式で新入生1814人分の名簿を紛失 受付を離れた約10分間に (ねとらぼ) - Yahoo!ニュース

簡単にいうと、入学式の受付にあった新入生の名簿が、ちょっと目を離した隙になくなってしまったという話である。

うちの業界って、個人情報の管理がけっこう杜撰で……という話をしようとしたが、いろいろと差しさわりがあるので違う話。

「入学式では参加に必要な入学許可証を入学生が忘れてしまった場合、受付が名簿で新入生本人であることを確認し、参加を許可していました」ってあるんだけれど、入学許可証が必要なの、とまずは思った。自分が卒業した大学は大きな大学で入学式は武道館だったりしたけれど、受付でそんなもの見せなかったなぁ。名前をいって、資料を渡されたと思う。大学院は違うところだったけれど、入学式前にガイダンスだったから、とくに受付もなかった。今の勤務先も入学式は受付なんてなかったような気がするなぁ。

昔は受付していたらしいけれど、最近は入学式前にガイダンスをやったりして、それで「ちゃんと来てくれるか」確認しているので、わざわざ入学式でも受け付けをしてチェックするのは無駄、ということになったらしい。

「学籍番号を変更して学生証を再発行する対応を取っています」となっているけれど、けっこうお金もかかるし、番号を振りなおすのも大変なんですよ。えらいことですね。

 

ここで、個人情報の管理の話に戻るけれど、学校は個人情報があふれている。

教務システムなどはアクセス権限が細かく定められているので、教職員ならだれでも学生のデータを手に入れることはできない(はずだけど、学校によって違うらしいな)。ただ、全学生のデータは手に入れられなくても、教員は自分の担当する学生のデータはもっているし、独自に学生から情報を得ている、かもしれない。さまざまなイベントも開催され、今回の入学式の話のように必要に応じてリスト化され受付などに利用される。それぞれの部署、学科、教員が独自に学生のデータを蓄積し、所持していることも多い。その中で、どこまで学生の情報を管理し、保護することができるだろう。

一方で、あちこちで独自にデータを管理していて「個人情報の保護」を盾に共有化できず、結果的に活用できていないものも多数見受けられる。学生の情報がこんなにもあるのに。

 

大学に求められているのは、学生の情報の保護と、そして、情報を活用して学生に対する支援・サービスを充実させることなのだろう。

 

私は前から、学生の情報はなるべく印刷しないほうがいいと言っているんです。今回も、もし紙で印刷したものではなくタブレットやPCなどに入れて、入学式の受付をしていたら、どうだっただろう。少なくとも、タブレットやPCを放置して誰もいなくなるってことはしないですよね。同じくらい、いやそれ以上に学生のデータも重要なんですよ。

(あ、たまに教員が電車や車などに学生データの入ったPC忘れたみたいなニュースが流れるから、そうでもないのか)

名前の意味は

時期的に、どの大学もほぼ入学者数が確定していることでしょう。新入生の受け入れ準備のためにも入学者数は早く確定してほしいのだが、ぎりぎりまで辞退者がでるため、なかなか難しい。定員割れするかどうかというドキドキ感もあるし、どこまで定員が割れていくのかという悲しい事実とも向かい合うのも大変である。(出だしは3月末に書いたので、4月には合わないわ)

そうすると、学内から出てくることが改組や名称変更である。

大学の学部のネーミング競争に拍車 謎のカタカナ学部が続出 (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

この記事では、『近年、少子化や大学進学率の上昇により、大学間の学生の奪い合いが激化し、「国際」「グローバル」「子ども」といった学部名をつけて独自性を打ち出す大学が増えている。学生に“未来”を感じさせる講座・コースの名は、かつては専門学校や私塾の専売特許だったが、大学がそこに参入して、ますますネーミング競争に拍車がかかっている』と言っているが、こんな話はずいぶん前にいわれていることで、今更何を言っているのだろうか。もうずいぶん前から、よくわからないネーミング、学位があふれているよ、我が国には。

 

でも、何が問題なのだろうか。この記事を読んでも、何を問題視しているのかがよくわからなった。

 

現実問題として、名称を変えるとその翌年度、多くは志願者を増やしている。理由としては以下のことが考えられる。

1.「変えた」ということで広報がしやすい。

2.「変えた」ということで、特別な広報予算がつく。

3.「変えた」ということで、広報担当者が力を入れる。

4.「変えた」ということで、そのときの受験生の興味をひく

 

……少し疑問もあるが、名称変更によって一時的に志願者が増えるのは事実である(エビデンスがみつからないけど、多くの関係者はそう思っている?)

そのため、志願者が減ってくると「名称を変更しよう」という議論が起こるのは、うちの大学だけではなく、多くの大学の傾向である、と業界の集まりなどでいろんな方の話を聞いて感じた私の感覚。

でも結局は、その学科などが行う教育や成果(就職率や資格試験の合格率とか)が弱く、あるいは流行から外れてしまえば、志願者は減っていく。そうするとまた、名称変更の議論が起きる、というループができるのである。

 

たしかに名称変更は手っ取り早い「変えた」ということを見せる方法だった。比較的簡単な届け出で、本当は中身を変えないといけないのに、科目名もそれなりに変えても、内容も教えている教員は変わらない。それでも志願者は一時的に増える。いや、届け出だからこそ、中身は変えられなかった、ということもある。

 

でも、昨今は文科省も規制を厳しくしており、名称変更でも届け出とはいえ、実質的には認可申請と同じような書類の提出が求められるようになった。とくに学生獲得の見通しまで根拠資料とともに提出しないといけないというのは、なかなかつらい作業である。

 

一方で名前は重要である。なぜならば、学科や専攻の名前がもっともダイレクトに志願者に伝わるからである。志願者からの第一コンタクトは名前である。名前で興味をもってもらい、さらなる情報に引き込むことができるのである。いまどき「文学部日本文学科」で興味を持つ志願者はほとんどいない。むしろ「スマホ学部LINEコミュニケーション学科」と名乗ったほうが関心をもってもらうことができるだろう。

 

でも、名前は入口だ。教学的には名前は教育課程を表すものかもしれないが、マーケティング的には入口だ。まずは関心をもってもらい、引き込んでさらなる情報を与えてさらなる関心をもってもらい、最終的には受験し、入学してもらうことが目的なのだ。……ということを教員に説明しても怒られるだけなのだが、言いたいことは名前はそれほど重要なことではないし、どんどん変えてもよいものだと思う。

 

名前は、大学だけではなくどんな商品でもそうだが、結局大切なのは「中身」ですよね。

だから学科の名前くらい、自由につけてもよいと思うのですが。

 

修士論文とは何か

山口県下関市の市長が、下関市立大大学院の経済学研究科に提出した修士学位取得に向けた論文が不合格になったというニュースがあった。

それを聞いたとき、設置者である市長の政策が気に入らないから教授会は不合格にしたのか、と最初は思ったが、いくつかの記事を読むと、「あれ、何かおかしいぞ」と考え込んでしまった。

下関市長“サクラ散る” 市立大「修士論文」不合格 情報公開請求へ (産経新聞) - Yahoo!ニュース

1.修士論文なのに500ページもあること。

それも正式な修士論文ではなく、その代わりとして当該大学で認められている「特定の課題についての研究の成果」として書いたらしいが、それでもあまりにも量が多い。通常、社会科学系の修士論文は多くても100ページ程度らしい(私はそう指導されたよ)。多いということは、不必要な引用がとても多いか、根拠資料などが整理されていないのか、論文としてもまとまっていないという印象を受ける。

 

2.実務者としての経験や人生論を盛り込む?

社会科学とはいえ「科学」であり、エビデンスに基づく記述が求められるもの、ですよね、論文って。経験も重要だが、それを過去の研究との比較や検証可能な材料を提示することによって初めて「研究」になるわけで、実務者としての経験や人生論なんて書かれても、研究者の視点からすれば、エビデンスが不明確という評価になるんじゃないか。

 

3.指導教員はどうしていたのか

この市長には当然指導教員がいたはずだ。ちゃんと指導をしたのだろうか。本人が「落とされる人は、体裁や外形的におかしい例が多いようで、私の論文の中身が理由ではないだろう」と言っているように、修士論文で指導教員の指導に基づいて書かれたものが不合格になることはほとんどないだろう。500ページという量の多さや実務者としての経験や人生論が盛り込まれたというのであれば、指導教員の指導を訊かないで書いたんじゃないだろうか。社会人大学院では、指導教員と意見が合わずにほとんど指導を受けないまま勝手に書いて提出する、という事例もわりと存在する、らしい。その結果、体裁や外形的におかしいものがそのまま提出され、不合格になってしまうこともある。今回はなんでだろう。

 

4.教授会の決定

研究科長は「合格に必要な委員会出席者3分の2の賛同を得られなかっただけ。内部ルールにのっとった判断だ。論文の中身についてコメントしない。不合格はしょっちゅうあることではない。結果を不服としての情報公開請求も聞いたことがない」といっている。学校教育法が今年の4月から改正されると、教授会はあくまでも意見を述べるだけで学長が決定をすることになっている。いや、今の学校教育法も最終的な責任は学長である。4月以降、こういうことが起きたら、どういうことになるのだろうか。

もう一つ気になるのは、不合格はよほどのことであり、少なくとも本人には理由を説明するものである。それを「委員会出席者3分の2の賛同を得られなかっただけ」というのは、教育者としては問題なのではないか。教育研究を指導する者としては、たとえ相手が市長であっても説明する責任はあるのではないか。

私がもし提出した修士論文が不合格となり、その理由を説明してもらえなかったとしたら、情報公開を請求するだろうし、裁判だって起こすかもしれない。いや、大学としては説明する義務があるのではないかと思うのです。

 

5.設置者が学生

市立大学なんで、設置者は市で責任者は市長。法律上は市長が積極的に介入する権限はなく、理事長を任命するなど限られているけれど、受け入れる教職員は困っただろうことは想像できる。

マンガなどではよく、高校の生徒が実はその学校の理事長の息子で、とか、大学の学生が理事長でとか、そういった荒唐無稽てせおもしろい話はあるけれど、実際に設置者が学生としてやってきたら、教職員は大変だろう。もちろん特別な配慮をする必要はないが、そもそも市長自身が自分の立場を考えて、私立・国立大学に行けばよかっただけのことである。

実際、違う私立大学で修士をとっていて、そこに今回の論文を持ち込んで博士論文にしようかと言っているくらいだから……。

 

6.修士論文を博士論文に?

「さらにブラッシュアップして博士論文にできないか相談に行った」と市長は修士課程を修了した私立大学に相談したらしいが、大学側は「指導できる教員がいれば引き受けて検討することもあるが、具体化はしていない」と回答したという。

下関市長、不合格の論文を今度は私大に 「博士可能か」 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

しかし、違う新聞では「他大学の修士課程に出した論文を受け付けるわけにはいかない。博士号取得には博士課程に進むことが必要だと話した」と私立大学は回答しているという。

市長不合格論文、他大学に自薦…「博士論文に」 (読売新聞) - Yahoo!ニュース

大学教員の研究業績を観ると、修士論文をもとに査読付き論文としてブラッシュアップして学会等で発表する場合が多いように見える。修士論文そのものが評価されることは、よほどの内容でない限り難しいのではないか(私の感覚ですが)

博士論文を書くときの材料として修士論文を引用することは当然あるわけですが、それをブラッシュアップして博士論文にすることは、難しいのではないか。博士論文がどれだけハードルが高いものなのか、もし市長が修士課程においていろいろな論文などを読んで学んでいれば、「博士論文にできるかな」とは思わないのではないか。そういう意味では、ちゃんと授業で学び、指導教員の指導を受けていたのか疑問である。

 

報道内容だけしか情報がないので、それを見たかぎりの感想レベルの話になってしまうが、今回の話は大きく分けて2つの問題があるように感じた。

一つは、学校教育法の改正とのからみである。4月の改正後、同じ問題が起きたときに、この市立大学の対応は何か変わるのだろうか。不合格だった理由をきちんと説明してくれるのだろうか。

もう一つは社会人が大学院に進学し学んで修士論文を書く意味である。社会人は学問を究めるためではなく自分の能力を高めてキャリアアップを目指すために入学する人が多いと思われる。ということは市長のようにアカデミックな観点よりも自身の経験に基づいた学びを進めるはずだ。その成果である修士論文をアカデミックの教員がどこまで評価できるりのだろうか。いや、何を評価するのだろうか。

 

今回のニュースは、そういった問題提起でもあるように感じたが、職場で話題になったのは「修士でも単位取得満期退学ってあるんだ」という話だった。

たしかにそんな事例は聞いたことがないけれど、そういうこともあるんだ。あるんですね……。

何を書けばいいのか

いろいろと試行錯誤で書いているんですけど、見ていただいているみなさんの反応を見ていると何を書けばいいのかなと、悩んでしまう。

目的は、職場ではいえないことをここで「さけぶ」つもりなんだけれど、それがうまくいっているのかが疑問。PDCA的な見方でいえばですけどね。

 

謎の人物にしているつもりなので、連絡先もなく、コメントも許可していない形ですが、もう少し、コミュニケーションをとったほうがいいかなぁとかも思うんですけどね。ただ、目的からすると、いらないかな。

 

一方で定期的に購読いただいている方もいるし、ちょっと考えます。

辞令の発令もあり、来年も同じ仕事をしていくみたいですから、差しさわりのない範囲でさけびます。

 

文科省の施策や外部環境を考えると、さけびたいことをたくさんあるんじゃないかと思うんです。

社会人の学び直しの意味は

大学は次々と開設される一方、その顧客である18歳人口は減少傾向にある。

そんなことは何十年も前から予測されていたことである。それに対して、社会人を大学が受け入れる体制を整えることで、生涯学習のサイクルをつくる。それによって、大学は生き残っていく、みたいな絵をバブル期のころは夢見ていたという話を聞いたことがある。

大学を生涯教育の場に…教育再生会議が提言 (読売新聞) - Yahoo!ニュース

 

教育再生実行会議の資料

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouikusaisei/pdf/dai6_1.pdf

 

また、同じ話ですか、と思う。

 

20年以上前、生涯学習が流行って、早稲田大学上智大学昭和女子大学などが社会人向けの生涯学習機関を開校した。中身は新聞社が開講したカルチャースクールと同じで趣味的なものや語学など多様なものであった。

でも、結局、現在採算が取れているのは早稲田大学くらい、ともいわれている。大学の生涯学習というと、大学の教員が教えるというイメージがあるけれど、実際は難しい。大学の専任教員はすでに大学で授業を持っているし、学内のいろいろな仕事に忙殺されている。そのうえ、社会人向けにに講座をもってほしいといわれても、引き受ける人はあまりいない。いたとしても、その人にはプラスαの講師料が発生する。結果として、学外の人を講師としてお願いすることになるので、大学が開校する意味はどれだけあるのか、経費的にも疑問であり、結果として収益という面では成功しなかった要因だろう。

……というのも、採算性も含めて実施を検討してくれといわれたので、以前に調べたことがあるので、そのときの記憶で書いている。

20年以上前は、定年退職した人や専業主婦など、時間とお金が余っている人を対象に大学で学んでいるというブランド力も含めて、集客することができたのだと思う。

でも今は、趣味的なものや学術的なもので社会人を集めることは無料のものであっても困難、ではないか。ほかの大学の方の話を聞いても、無料の公開講座ですら、集客に苦労している話をよく聞くし、私も苦労したことがある。

 

社会人の学び直しに関する補助金があって、採択された大学がそれに基づくいろいろなプログラムを開設したが、補助金終了後に残ったものはほとんどない。プログラムのほとんどが無料または安価であり、補助金なしでは存立できなかったからだ。

社会人の学び直しニーズ対応教育推進プログラム(「大学・専修学校等における再チャレンジ支援推進プラン」の一部):文部科学省

 

バブルのころは、老人や専業主婦など時間とお金が余っているひとが興味本位で学んでいたということもあるだろう。でも、社会人は今、意味のない学びに時間とお金をかける余裕がないということではないだろうか。

社会人が今比較的集まっているMBA系の大学院においても、結局人が集まるのは中身よりもブランド力のある大学のようである。そして、MBAを得たからといってキャリヤアップにかならずしもつながらないことから、すでにMBAバブルは崩壊しているという話も耳にする。日本大学など、MBAを廃止するところもでている。

法科大学院などはさらにひどい状況だ。

 

こんな状況でまた大学を生涯教育の場にするといっても、どうするのだろうか。

 

定年退職した人たちはもはやそんな資金的余裕もない。

社会人は、自分にプラスにならないかもしれないものに投資するはずもない。

子育てなどで仕事を離れた女性もまた、お金も時間も余裕がない。

 

それはもう、20年以上前の生涯学習の流行から衰退までの流れの中で明らかになっていることなのではないか。

 

これはつまり、「大学の学びに意味がない」ということだといったら言い過ぎだろうか。

 

大学の新卒の学生たちの就職活動は「新卒」ということが条件であり、大学で何を学んだかということは意味のない。意味があるのなら、年齢やどの大学ではなく、学んだことを評価するものではないか。学んだことが評価されるのであれば、社会人でも、専業主婦でも、大学でふたたび学ぶ意味があるはずである。

アメリカは、高校を卒業して就職し、ある程度お金がたまったら仕事を辞めてコミュニティーカレッジで学んで転職し、それからまた大学の専門課程で学んで転職し、大学院で学んで転職……というキャリアパスの流れができているといわれる。

 

でも、日本では学校で何を学んだかなんて、ごく一部の専門的なもの以外は評価されないのだ。そういった現状を放置したまま、社会人の学び直しだとか、大学に社会人を受け入れるといった話をしても、意味がない……ということは大学関係者はもう知っている。だから、政府が何かを提言しても動かないし動けない。

補助金で政府は動かそうとするかもしれないが、今言った根本的なことが変わらない限り、今まで何度も補助金を絡めて試みようとした大学に社会人を迎え入れるといった流れは作れないだろう。

 

それでも、補助金がでるといったら、多くの大学も動き出すだろう。

うちもきっとそう。

共同学位プログラムの価値は

最近の業界のホットwordの中に「ダブルディグリー」「ジョインドディグリー」というものがある。制度的にも今度は大学設置基準の改正で「国際連携学科」というものが作れるようになる。

どれも、外国の大学と共同の学位を取得することができるというものである。はっきりと定義していないようだが、文部科学省の「我が国の大学と外国の大学間におけるダブル・ディグリー等、組織的・継続的な教育連携関係の構築に関するガイドライン」によれば、以下の通りである。

・ダブル・ディグリー・プログラム
 我が国と外国の大学が、教育課程の実施や単位互換等について協議し、双方の大学がそれぞれ学位を授与するプログラム。
 
ジョイント・ディグリー・プログラム
 我が国と外国の大学が、教育課程を共同で編成・実施し、単位互換を活用することにより、双方の大学がそれぞれ学位を授与するプログラム(我が国と外国の大学が、共同で教育課程を編成・実施する場合に、単一の学位記を授与することは、我が国の法令上認められていません)。その際、学位記は各関係大学が授与しますが、そのほかに、共同で編成された教育課程を修了したことを示すサティフィケート(証明書)を発行することが想定されます。なお、これには、国内大学の共同実施制度(国公私を通じ、複数の大学が相互に教育研究資源を有効に活用しつつ、共同で教育課程を編成し、共同で一つの学位を授与するもの)は含まれません。
 
最近、東京藝術大学が海外の4大学と連携協定を結ぶというニュースがあった。最終的にはジョイントディグリーを結ぶ方向のようだ。

東京藝大、世界4芸大による連携協定 (リセマム) - Yahoo!ニュース

 

グローバル化というやつの一環なんでしょうが、「ダブルディグリー」「ジョインドディグリー」を推奨することは、日本の学位だけでは価値がないと自ら主張しているようなものではないか。

 

……そうじゃないかもしれないけれど、小さな、英語とは縁のない大学には関係ない話であろう。でも、と私は思う。海外の大学ではなくても、たとえば地方の大学などで「うちの大学で学ぶと東京大学の学位も取得できますよ」となると、どうだろうか。東京大学ではなくても、都市部の人気大学の学位を同時に取得できるとしたら、地方の大学、とくに小規模大学にとっては大きな価値を得られるのではないだろうか。海外の大学の場合は、交渉から契約までいろいろとめんどくさいが、国内であればそれほどではないだろう。

あとは、文部科学省が認めてくれることは前提として、共同プログラムを受け入れてくれる有名大学にどんなインセンティブがあるかだろう。ロイヤリティーとしてそれなりの金額を支払うとか……。

いいアイデアだな、と思ったが、それは同時に自大学のアイデンティティーというか、他の大学の学位をえられることを条件として入学してもらってまで、自大学を存立させないといけないのか、ということか。自分たちの教育だけではだめであることを認める行為であり、そこまでして大学を存続させる必要があるのだろうか。

 

あ、それって、結局海外の大学とのジョイントディグリーも同じではないか。

 

まあ、どちらにしても、そもそも小さな大学には縁のないことか。